昨日の日記に書いたように、3月16日を最後に配信が止まっていた広島聖書BCからの「日々のことば」が、今朝、突然に、また送られてきました。
私の今の状態にピッタリ。
覚え書きのために載せておきます。
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「しかし今、こどもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか・・私はあの子のところへ行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない」?サムエル12:23
ダビデは病気の我が子のため、断食して癒しを祈り続けたが、願いは叶わず子供は死んでしまった。子供の病気を知った時、ダビデは地に伏し、食事も取らずに祈り続けた。 ダビデの子供への、その強い深い思いを知る家来たちは、子供の死をとても告げられなかった。しかし、家来たちの様子で、その死を知ったダビデは、起きあがり、身体を洗い、着物を着替え、主の宮に入り礼拝した。 そして、食事を取った。家来達は驚いた。子供が生きている間は断食をして泣いて祈ったのに、亡くなると起き上がり食事をするとは。 私達はこのダビデから学ぶ事が出来る。ダビデはいさぎよかった。自分の願いは願いとして、主に祈るべきだ。しかし、しばしばその結果が自分の願いと異なる事がある。 「ノー」の答えがある。それは、どんなに熱烈な願いでも「ノー」が答えであり、それが主の御心なのだ。それが最善なのだ。 その時は、その「ノー」をダビデのように受け入れる事だ。受け入れる事が、神の主権を認めることだ。今、あなたも「ノー」の答えを受け取っているか。 ノーは決して嬉しくないが、主の御心として厳粛に受け止めよう。そこで主を新たに知る。その答えはノーだが、霊的にはイエスで、一歩成長して、信仰に前進して行ける。後に必ず良かったと思える。

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様々な祈りの答えがある。すぐに答えられる祈りばかりでなく、別の道への示しが与えられる時もある。主を認め、さらに導きを待ち望むことが祈りの答えであるかもしれない。
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信仰の成長は今すぐにはできそうもないけれど、後から、これで良かったのだと必ず思えるのは確か。
神さまに期待。


それから今回の旅で気に入った料理があります。
それはスイス料理のRoesty(リュシュティ)。
ジャガイモを細く切って、オイルをひいたフライパンに押しつけて焼いて、焦げ目が付いたらひっくり返して、いろんなソースをかけていただく、というもの。ツェルマットにいったとき2晩同じレストランに行って食べるほど気に入りました。
上は、リュシュティの上に洋梨、チーズ、ベーコン、くるみがのっているもの。
真ん中はキノコのソースとフレッシュクリームがのっているもの。
下2枚がそのレストラン。カントリーな素敵なところ。また行きたい。