昨日の午後から頭が痛くて今日も治らず休んでおります。
でも薬を飲んでよくなりました。
具合が悪いときに布団にくるまって眠っていられる幸せに感謝しました。

私のための覚え書き。広島聖書BCの日々のことばから。
「悪いこと」をしたのは、私です。
私の悪をも用いて、よいことのための計らいとされる神に、
感謝します。


「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを良いことのための計らいとなさいました」創世記50:20
ヨセフは、兄たちの妬みと憎しみによって、つまり悪意によって、エジプトへの隊商に売られてしまった。それは兄たちの明確な悪意であったが、結果的には、その悪巧みを通して、ヨセフはエジプトの総理大臣となり、大飢饉の中、家族をエジプトへ呼び寄せ、ヤコブの子孫のいのちを救うことになった。 「神はそれを良いことのための計らい」とされ「それは今日のようにして、多くの人々を生かしておくため」であったと。神は、人の悪意すら用いて、良いことにされ、益と変えられる。それをも、ご自身のご計画のために用いられる。 パウロユダヤ人たちの悪意により、囚人となってしまう。が、その悪巧みにより、結果的にどんどんローマへローマへと進められ、導かれる事となり、福音が大きく広がる事になった。神は悪意すら用いて、ご計画を進めて行かれる。御心を止めることは、誰にもできない。神の御心は、必ず成就されて行く。 ヨセフは理不尽な苦難だったことだろう。一人で異国の地に連れ去られ、どんなに不安で孤独で恐怖だった事だろう。兄たちの仕打ちにどんな思いでいた事だろう。エジプトでは、主人の好意と信任を得たと思うや、無実の罪で牢獄へ。 しかし、苦しく辛い、悩みの炉を通りながら、ヨセフは砕かれ、練られ、整えられて行った。人の悪意は、信仰に立つ時、私たちに何の害も加える事が出来ない。私たちを、更に主に近づけるばかりだ。
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人の悪でさえ、主が介入され、良いことにして下さる。自らの失敗、過失をも益として下さり、突如の事態をも、益と結果するようにして下さる。それも、それらすべてを、御子のかたちへと変えるように、愛、喜び、平安・・の実を結ぶようにされるとは、何たる恵み。