ここ北国も桜の季節になりました。
私の家は今から大体35年前くらいに造成されて造られた団地です。そのときにたくさんの桜の木が植林され、35年たった今、素晴らしい景色を見せてくれます。
地元の人くらいしか訪れない穴場なので、今のままきれいなままでいて欲しいなぁ、と思っています。


さて、今日もまた、私のために、広島聖書バプテスト教会からの「日々のことば」を転記させていただきます。

「来て。主のみわざを見よ」詩篇46:8

主は戦いをやめさせ、弓をへし折り、槍を断ち切り、戦車を火で焼かれた。そして「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」と。エルサレムの人々に、主がもたらされた勝利を、敗北した敵の姿、その様子、主の戦勝の品々を見よと告げられている。そして、主が戦われ、主が勝利をおさめられたという事を。「やめよ」とは、人間の力による人間的な知恵、方策による、肉の様々な工作をやめよということだ。肉の力で戦うのではなく、その肉に、自分に死んで、御霊に支配されて、御霊の導きに従って行くのが信仰生活だ。
「神はそのまなかにいまし、その都はゆるがない。神は夜明け前にこれを助けられる」神は都の真ん中に臨在され、その都はゆるがない。神は私達一人一人のただ中に臨在されるので、私たちは何があっても揺るがない。不安な事柄や思い煩う事態、恐れに襲われる事、信仰生活で様々な事態が生じるが、その時こそ「わたしこそ神であることを知」れる時だ。「やめよ」人間的工作は止めて、目に見えない神を信じよう。
「神はわれらの避け所、力、そこにある助け」だ。「主のみわざを見よ」今までどんなに良くして下さっただろう。必ず折りにかなった助けがあり、奇跡があり、幾度もみわざを見た。今、新たに主に信仰を献げよう。
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自分が肉の力で動き回っている限り、主は傍観しておられる。肉の力は逆方向へ進んで行く。自分で動くのを「やめて」御霊の導きを求め、御霊によって進む時、主のみわざを見る。