朝日が昇ってきました。

ここ一週間、あることを待っています。

なかなかそれがやってこないので、眠れない夜も実はありました。

そのことで頭がいっぱいになるそのたびに、主は約束を下さって、主にゆだね、主に信頼し、思い煩わないように祈り、平安を与えられていました。信仰が強められていると感じ、実際自分ではなく主に完全に頼ることを訓練されている、そんな一日一日、一時間一時間でした。


でも夕べ、「ハドソン・テーラーの生涯とその秘訣」から、もっと完全な信頼の秘訣を教えられました。

それは、私の中にキリストが生きていられ、キリストの中に私が生きている、ということ。

完全に一体であるということです。

完全に一体ということは、キリストの考えと私の考えは、同じということです。つまり私の考えが主の御旨である、同じになるということです。

本の中の文をそのまま載せると、

「『わたしたちが何事でも神の御旨にしたがって願い求めるなら・・・神に願い求めたことはすでにかなえられたと知るのである』(中略)最も慕わしいものはキリストの完全な一体化がもたらす安息であります。私はこのことがわかってから、もう何事も思い煩いません。主は御旨を行いうる方であり、主の御旨は私の心であることを知るからです。主が私を、どこに、どのようにして置かれるかは問題ではありません。そのことは私よりも主がお考えになるべきことなのです。なぜなら最も楽なところでも、主は私に恵みを下さらなければなりませんし、最も困難なところでも、主の恵みは十分だからです。私が召使に、ちょっとした安いものを買いに行かせようと、非常に高価なものを買いに行かせようと、彼にとってはたいした違いではありません。いずれにしても彼は、私に金を求め、買ったものを私のところに持ってきます。もし主が私を深刻な困惑の中に置かれるとしても、神は十分に私をお導きにならなければなりません。非常に困難な立場におかれるときには多くの恵みを与え、激しい圧迫の中では非常な強さを与えてくださらなければなりません。主が貧しくあられるので緊急の事態に対応できないかもしれないなどと恐れることはありません。主の富は私のものです。主は私のものであり、私とともにあり、私のうちに生きていてくださるからです。」


ここを読んで、夕べ、私もこうなれるように祈りました。主と一体となって、思い煩うことのないようにと。

主が私に良いものを拒まれることがありましょうか。ないのです。完全で正しいお方は御自分を否むことができないのです。

本当に心から喜びがありました。

そして一晩たった今、私の心は朝の光のように輝いて、喜びで満ちている。これは本当に不思議な主のわざです。

そして、今までと同じように、あることを待っている今の状況を思ったとき、完全に主にゆだね、思い煩う必要がなくなっていました。

このような状況にならなければ、今までと同じように、自分の力でできるだけして、あとは神様お願いします、というような今までの私と変わりがなかったでしょう。
でも、わたしが弱いときにこそ主の力は完全に現れる、ということでもあるのでしょう。自分の努力はまったく必要がなかった。


「しかし、信仰が強められるためにはどうしたらよいのでしょう。それは、信仰を求めて努力するのではなく、忠実なお方に寄りかかることによるのです

「『たとい、私たちは不真実であっても、彼(主)は常に真実である』。私は主を仰ぎ、『決してあなたを見捨てない』と言われる主を見たのです。私が見上げたとき、ああ、どんなにうれしかったことでしょう。」


主に完全に、文字通り全てゆだねること。また私と主は一体であるということ。その主が私のために働かれる。本当に感謝です。